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2012年5月13日 (日)

CQ-M International Contest & Allesandro Volta RTTY Contest 参加報告

今日は3エリア恒例の関西VHFは欠席して、尼崎市のホームでロシアの連盟主催のCQ-M International Contest、そしてイタリアのAllesandro Volta RTTY Contestに参加しました。

CQ-Mは特に最終週のCQ WPX CWの前哨戦として、新しく設置し直したアンテナで、ホームでのCondx把握のために参加しましたが、全16QSO・・・。Condxも良くなかったこともあって、なかなかQSOできる局が見つからず、数も伸びませんでした。特にNAはゼロ!ただ疲れるだけのコンテストでした。

ちなみに、このCQ-Mは2010年には加古郡稲美町から参加して、全10QSOで惨敗・・・(http://geocities.yahoo.co.jp/gl/jo3psj/view/201005)、今回も同じ轍を踏むことになりました。

ちなみに、当時も日曜日のAMはNAが聞こえていないようで、かなり苦戦していたようです。同じロシアの連盟のコンテストである3月のRussian DXと比べると参加者も少ないようで、いささか地味である気がします。

2回参加して、こんな悲惨な結果で終わるのだったら、来年以降の参加は見合わせて、関西VHFに集中しようかなと思います。

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Allesandro Voltaの方はもっと悲惨で、たった5QSO・・・。こちらもCondxが悪く、夕方のEUの信号が聞こえませんでした。

さらに、今回初めてFSKで試したら、DV1/のJA出稼ぎ局は、MARKしか出ていないとか・・・。どうも接続が悪いのか分かりませんが、電波が出ていないようです。試行錯誤も何回か繰り返しましたが・・・

どなたか、FSKについて詳しくアドバイスをいただければと思います。

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結局、予想外に悲惨な結果に終わりました。まあ、規模的にはさほど大きいものではないので悔しくもないですが、結論としては最終週のCQ WPXは移動運用で参加しようと思います。

さらに、来週はEPC PSKが開催されますが、いくらPSKとはいえ、ここまでCondxが悪かったら、あまり期待できないなと思いました。

アンテナ改良

現在、当局はベランダの内側にアンテナをループ状に設置しています。

これでもCondxがいい時期はEUやSAとQSO可能ですが、全体的にCondx頼みのアンテナになってしまい、夜間のハイバンドは全く聞こえません。

そこで、再びアンテナ全体を外に出すようにしました。

ただ、従来のように5mの釣竿をフルで常時設置するのではなく、長さ3m程度にして、8m程度のワイヤーで外側にループ状に設置するようにしました。

実際、長さ1.5mのモービルアンテナを常置していましたが、今まで問題がなかったので思い切って外に出してみました。

このモービルアンテナを設置していた場所には長さ3mの釣竿ホイップを設置し、18M、21M、24M、28MでQRVできるようにしました。

もちろん、常置ではなく、使用しない時は簡単に畳みます。

ループ状のアンテナで7M、14M、18M、21M、24M、28Mがマッチが取れます。ただ、10Mはうまく行かず。若干の長さのエレメントの追加でうまくいきそうです。特に14M、18Mは良く聞こえます。

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5月9日はロシアでは「大祖国戦争戦勝67周年記念日」で、ナチスドイツとの戦争が終結した日で、日本の8月15日に当たる大きな記念日になります。ロシアではナチスに勝利したということで、「戦勝」という言葉に大きな意味を与えています。

この日はロシアのアマチュア無線でも1日だけの特別局で、RP67シリーズが沢山出ていました。当局も夜9時以降に8局とQSOできました。

さらに、未明の時間帯には14MでOZ、HAとQSOでき、従来の内側にループよりも遥かに使えます。

近隣のアパマン局がより有利な環境でアフリカやヨーロッパの珍IOTAなどとQSOしてDXCCを着実に稼いでいる中、そのような信号はつゆ聞こえて来ず、ストレスが溜まる環境ですが、まあ、できる範囲でがんばっていこうと思います。

まあ、こんな環境だから、金輪際、DXCCには興味はないと言っておきましょう(笑)。

2012年5月 5日 (土)

関西VHFコンテスト 参加見送りの予定

来週末は3エリアで恒例の関西VHFコンテストが開催されます。

当局は08年~10年は参加、11年は被災地にいたために参加を見送りました。また、09年は入賞しました。

今年は2年ぶりに復帰を考えましたが、先週の東北移動での疲れがあることを考え、参加を見送る方向で考えています。

また、同日にはロシアのCQ-M International ContestやイタリアのAllessandro Volta RTTY Contestが同時開催されます。

今月最終週はCQ WPXの最終幕であるCW部門が開催されることもあって、このコンテストの前哨戦として上記の2つのDXコンテストにホームから参加しようと思います。

これらのコンテストの参加を優先する以上、関西VHFは参加を見送るか、仮に参加しても顔見せのつもりで参加しようと思います。

久々に3の仲間とQSOを楽しみたいところですが、私の方針としてもご理解をお願いします。

ALL JAコンテスト 参加報告

4月最終週末恒例のJARL主催ALL JAコンテストは宮城県本吉郡南三陸町(06014F)より参加しました。

最終結果は395QSO。400にわずかに足りませんでしたが、多くの局とQSO、そしてJCGサービスをすることができました。さらに、ここ最近はすっとDXコンテストに熱中しており、久々に沢山のJAの局とQSOを楽しむことができました。

今回のQRVは被災地、特に南三陸町は志津川や歌津といったかつての合併前の中心部をはじめ、沿岸部の多くの地域が壊滅的な被害を受けており、「戦場」となる場所を探しましたが、高台に安全な場所があったので、そこで運用させていただきました。

私が運用したところは津波の被害とは無縁な平和なところで、近くに仮設住宅もありましたが、特に心配もなく、コンテストを続けることができました。

ただ、場所の関係とSWRが下がらず、3.5MがQRVできなかったり、7M用のDPが一本使用不能になるなどのトラブルがありました。

さらに、場所的な関係で50Mは仙台方向や海上を通って1エリア方面の入感がなく、スキャッターで福岡の局1局で終わったり、ハイバンドもEスポが開けず、スキャッターで時折QSOできるくらいのコンディションでした。

南三陸町は被災地ということや珍しい町ということもあって、南三陸町1stという局が多かったり、また「津波で甚大な被害を受けたことを聞いています。がんばってください」というお言葉などをいただきました。

また、移動運用に熱心なJH7BYCさんとは約4年ぶりのQSO。よく覚えていただいていたようで、こちらが南三陸町に来ていることを知るとびっくりされていました。

今回はコンテストだけでなく、休憩時間を使って周辺の観光地も見てきました。コンテストで勝つことも重要かもしれませんが、この機会にじっくり見ておきたいものを見ておきました。特に石巻市との境界線を成す神割崎の景観はすばらしく、被災した地域の中にもこのようなすばらしいところがあることを改めて知りました。

改めてQSOをしていただいた多くの局に感謝いたします。そして今回はQSOをいただいた全ての局に南三陸町の風景のあるQSLカードをお送りいたします。

被災地の実情-1年後の様子 PART-Ⅴ-総括

以上、駆け足みたいな感じでしたが、4月26日から30日まで、被災地各所を回ってきた様子をざっと報告しました。ちょっと分かりにくかったと思いますが、最後に震災から1年が過ぎて、被災地がどうなっているのか、その実情を総括します。

☆1年間の状況の変化

2011年3月11日・・・東日本大震災発生、太平洋岸の多くの都市で津波被害、岩手県大槌町、陸前高田市、宮城県南三陸町、女川町では中心部が壊滅し、役場も倒壊

2011年5月~7月・・・JO3PSJ、岩手県大槌町に派遣、その間、被災地各所も訪問

・電気やガス、電話のような基本インフラは早期に復旧している。

・この時期は震災後の様子がそのまま残されており、倒壊家屋や漂流した車両、船舶がいたるところに散乱。主に自衛隊が道路及び土地内の瓦礫の撤去に従事。

・被災した住民は各所に点在する避難所に滞在。仮設住宅の場所はまだ大部分が決まらない状態。

・商店の多くも被災しなかった地域が営業を行っており、被災した地域での再開は大部分が見られない。

・役場も混乱状態で、犠牲者の死亡届の処理が主。住民票や戸籍謄本を取りに来たり、新たに印鑑登録をやり直す住民が殺到状態。罹災証明書の発行に追われる。

2011年7月末ごろ・・・JO3PSJ、任務終了前

・大槌町では7月中旬に自衛隊が任務を終了。

・町内も倒壊家屋の撤去や瓦礫の撤去もほぼ進み、全体的に更地化へ。

・仮設住宅の抽選も始まり、8月中に全避難所も閉鎖へ。

・仮設住宅が決まったものの、全体的に点在状態で、周辺に商店がない上、仮設の商店も場所が決まらない状態。仮設住宅地帯から中心部への交通機関も不十分な状態で、移動が不可能に近い状態。

・堤防が破壊された箇所では土嚢による仮設の堤防が設置されてきている。

・一部被害が少なかった観光地ではすでに観光客の受け入れも再開しているが、全体的に出足が鈍い。

2011年9月中旬・・・JO3PSJ、訪問

・ほぼ瓦礫や倒壊家屋の撤去が終了しているが、道路における地盤沈下被害の解消が進んでおらず、安全な通行が確保されていない状態。

・復興状況によっては地域によって差が出てきており、陸前高田市のように被災地域に大型スーパーの仮設店舗が開店するような積極的な展開をしている反面、土地の確保や安全性の問題で被災地域に進出する動きが鈍い地域も出ている。

・営業を再開する商店も多くが「食」に関するスーパーで、「衣」「住」に関するものは極めて少ない。

2012年4月・・・JO3PSJ、訪問

・昨年の段階では残っていた大型の建築物も解体されており、更地化が進んでいた。

・被災地域内で信号機が設置され、通行の安全性が確保されるようになった。

・地盤沈下の被害が著しかった地域では道路の嵩上げがなされ、通行の安全が確保されるようになった。その一方で、道路沿いの土地までは対策が行われていないことがあり、今後の土地の再活用との関係においても対策が必要となる。

・回収された瓦礫は数箇所にまとまって山積みされているが、他自治体の瓦礫処理の強力支援の動きが鈍いために、そのまま山積み状態になっている。

・被災地域においても仮設商店街が設置されたり、大型ショッピングセンターの再開が見られ、人の動きが活発になった。

・営業を開始した商店も、「食」を満たすスーパーだけでなく、「衣」の衣料品店や美容院、さらにはレンタルCD店や電気店など、バラエティーに富むようになった。津波で流された店舗が、従来と同じスタイルで営業を再開するようになった。

・依然失業率が高いようで、被災地に十分な雇用が確保されているとは言い難い。営業を再開したパチンコ店が震災前よりも繁盛している感じである。

・仮設住宅が点在する地域と中心部との交通機関は充実したとは言い難く、町民の移動も依然不便な状態が残っている。都市間の交通機関も鉄道が再開されず、内陸寄りへ移設するかどうか、決定がなされていないので、再開できない状態である。

・役場も業務はほぼ正常に近い体制になり、業務の内容も震災当時の混乱状態の収束を目的としたものから、被災者支援や都市計画、再開発などの分野に重点が移っている。

・被災地周辺の観光地も観光客が戻るようになり、被災地自体の訪問も見られるようになった。

***

ざっと時系列的に被災地の変化を見てみましたが、やはり1年も経てば被災地域もほぼ改善に向かっています。

特に仮設商店街は被災地各所に進出しており、大部分が被災地域の安全な場所を選んで設置されました。現在、国の方針では被災地域への建築の制限が行われていますが、やはり被災地では従来の場所に近いところでの再開を希望しています。

また、震災発生当時は生きるために「食」が求められていましたが、1年経てば「衣」の方も出ており、被災地での日常生活への需要の変化も見られます。全体的にはまだ混乱状態も残るところもありますが、正常化への動きも進んでいる感じがします。

その一方で、雇用の確保などはなかなか進んでいないようで、被災地の失業率は全体的に高い感じがします。被災した地域では十分な雇用の受け皿が確立しておらず、もともとの基幹産業だった漁業も船を失ったり、海から遠いところにある仮設住宅に住まざるを得なくなって、再開ができないところもあります。そういう意味でも、雇用問題の解決は重要な課題になりそうです。

また、仮設住宅の地域と中心部への交通も充実したとは言えず、特に車を持たない高齢者や車を失った被災者にとっては依然不便な状況は続いていると思います。従来から高度な車社会が発展して、公共交通機関が縮小傾向にありましたが、現状では山間部や郊外に仮設住宅が設置され、従来の都心の住民がそこで生活をせざるを得なくなったために、不便さを解消するに足りる公共交通機関の確保が課題になると思います。

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東日本大震災から1年が経ち、当時の混乱状態も一通り整理されて、復興も新たな段階に入ってきたと思います。

あたかも状況が落ち着いてきたかのように感じますが、実際にはまださまざまな課題が残っています。

被災地の再開発について、現在のところ国の方針を待ちながら行っている状態ですが、やはりまちづくりの主役はその地域の住民であるので、地域住民の意見を尊重しながら、地方自治体が主導で行っていくべきだと思います。

復興への道のりも長いですが、今後も見守って行こうと思います。

2012年5月 4日 (金)

被災地の実情-1年後の様子 PART-Ⅳ

4月30日(月)、ALL JAが終わって一夜明けて、「戦場」を片付け、午前8時30分、出発しました。

このまま一路仙台へ向かおうと思いましたが、コンテストでお世話になった南三陸町へ恩返しみたいな意味でも、最後にもう一度立ち寄って、じっくり見ていくことにしました。

南三陸町の中心部にある防災庁舎の前に再び立ち寄って、入口の前の祭壇にて犠牲者のご冥福をお祈りします。

この日は連休前半の最終日で快晴。やはり多くの人が来て、祭壇に手を合わせたり、庁舎や町の写真を撮ったりしています。ここに来る人たちもいろんな目的を持って来ていると思いますが、やはりこの場所で何が起こったのか、少しでも考えていただければうれしく思います。

その後、更地となった町内を車で走りながら、海岸へ。荒島に向かいます。荒島は志津川にある小島で、防波堤を通って島へ歩いて渡ることができます。島の入口に鳥居があり、階段を登って1周できましたが、津波で流されてしまい島を歩くことができなくなりました。早期の復興をお祈りしています。

荒島を眺めた後、内陸へ向かい、高台にあるベイサイドアリーナの前を通ります。ベイサイドアリーナは町立体育館の愛称で、震災後には倒壊した町役場の仮庁舎もここに置かれ、商業上の拠点も移転しました。

もともと、この地域は志津川商工団地として開発してきたところで、小さな町工場や会社がここに拠点を置いていました。この付近にあった施設は震災の被害がなく、通常通り業務を継続しています。町の中枢が海岸沿いの平野に集中しすぎて内陸地域の開発を十分にしてこなかっただけに、今回の震災で壊滅的な損害を蒙ることになった大槌町とはかなり違います。

もっとも、地政学的に海岸線沿いのルートしかなく、内陸方面への抜け道がなく、住宅地などを開発できるほどの広さが他にない大槌町と、内陸方面への抜け道を持ち、その沿線に沿って内陸部の高台に開発ができる南三陸町と事情が違いますが、今後災害に強い町を作るためには、都市機能を分散させる必要があると思います。

なお、ベイサイドアリーナの近くにクロネコヤマトの営業所があり、ここで持っていた大きな荷物を全て送り出すことができました。早期に大型荷物から解放できて本当に大助かりだし、何より町の経済的な復興にも協力できます。

再び志津川の中心部に戻って、町の東側の東山公園で町の写真を撮影しました。この公園は高台にあり、国道45号線を東西に眺めることができます。さらに桜も咲いており、桜の花と被災地の様子を同時に被写体に納めることができます。

10mを超えた津波の被害を受けながら、この公園は何とか免れ、桜の木も浸水を免れました。そして2度目の春を迎えましたが、やはり美しい桜の花の下に荒れた台地が広がっているのを見ると悲しい気分になります。それでも、こんな大きな災害でも生き残り、大輪の花を咲かせているのを見ると、くすんだ心も和んできます。被災地にとって、復興への大きな力になればと思います。

その後、少し内陸部の宮城県の合同庁舎の跡地の前にある「南三陸さんさん商店街」に立ち寄りました。ここも3月にオープンしたばかりで、大きな駐車場もあり、かなりの賑わいを見せています。それでも、この場所は海岸から3kmほど内陸にありますが、津波の甚大な被害を受けました。川をさかのぼり、平野にある街を悉く流し去った津波の恐ろしさを実感します。

この商店街もバラエティーに富んでおり、日常に必要なものはほぼ何でも揃っています。私もここで白魚のかき揚げを食べました。あと、志津川といえばタコ!でも行った時は売り切れ、ちょっと残念でした。それでも、海産物はものすごく美味しく、食べ歩きするだけでも楽しいです。

さらに、この商店街には観光案内所もあります。パンフレットの他、復興支援のグッズも売っています。南三陸町のタコをモチーフしたバッジや「必勝ダコ」というマスコット、その他工芸品などもあり、お土産にもFBです。

被災地を観光することについてもいろんな考えがありますが、やはりそこで観光に携わったり、店とかを営業している人たちにとっては、観光客が途絶えてしまうのは望んでいません。良識を持って見て回る限りは問題がないと思います。そして、もちろん商店街にも寄っていただいて、美味しいものを食べ歩いたり、民芸品などを購入して、経済的にも支援していただければと思います。

適度に町を見て回ったあと、南三陸町にお別れすることにしました。南三陸町を含め、各被災地は今少しずつ復興への歩みを見せています。今後もまた見守って行きたいと思います。

途中、石巻市や東松島市に立ち寄ろうと思いましたが、連日の長時間運転や昨日のコンテストでかなり疲れていることもあって、仙台に直行して、早々レンタカーから解放されることにしました。

神割崎の前を通って、北上川沿いに走り、新北上大橋を渡って、南岸に沿って走ります。新北上大橋のそばには大川小学校があり寄って行こうと思いましたが、防災庁舎と同様、かなりの人が来ています。今回はそのままパスしました。

石巻河南ICから仙台港北ICまで三陸自動車道を走ります。幸いGWのラッシュはなく、快適に走ることができます。しかし、片側1車線の対面通行が大部分なので、運が悪いとマナーが悪い、というかものすごく運転が下手なドライバーが後ろから接近してきます。

後ろから煽るドライバーは1分でも早く目的地に着きたかったり、また自分は車の運転が他人よりも上手だ!と思い込んでいるのが大半のようですが(実際、車を運転する人の9割がそう思っているとか・・・)、実際はこっちがブレーキを踏んだら、衝突を避けるために大きく横揺れしていたり、前後の間隔が大きく変化しているし、直線の見通しのいい区間で対向車が来ていないにもかかわらず、抜かすこともできないようです。このような運転をしていれば、煽られる側もそうですが、もっとも煽る側はもっと大きなストレスになり、過労運転の原因にもなります。

私は車の運転が下手なので法定速度で走行しますが、車間距離を開けて走れば前後の状況も広く見渡せるし、何より、対面通行の区間や山道の国道ではどんなに急いで走っても、目的地近くでは後続車とは数分と変わりませんし、結局は数mの差しかなくなってしまいます。むしろ余裕を持って走ればストレスを感じることもないでしょう。

仙台には午後2時到着、レンタカーを引き払い、しばらく市内を散歩します。仙台も海岸沿いは甚大な被害を受けましたが、青葉区の中心部は終日賑わっており、全然別世界みたいな感じがします。若林区の被災者にとっては同じ市内にありながら面白くない光景にも見えるかもしれませんが、やはり被害を受けなかった地区は通常の生活を継続することも重要だと思います。

その後、仙台空港へはアクセス鉄道で4時半ごろ到着。荷物を預けてしばらく空港周辺を散歩しました。

仙台空港も津波に飲み込まれたところはテレビでもよく流れていたので覚えている人も多いと思います。今では完全に復旧し、再び東北のゲートウェイとして活躍しています。到着ロビーには津波が到達したところ(3.02m)にマークがしてあり、復旧の様子が写真で紹介されていました。

ターミナルに隣接するアクセス鉄道も駅舎だけでなく、滑走路下のトンネルも浸水してしまい、復旧に時間がかかりました。昨年9月は再開前で駅前はぺんぺん草で覆われていましたが、今はすっかりきれいになりました。

空港から海岸へは1kmほどで、歩いて散歩できます。空港そばの貞山堀を渡ると海岸まで家が立ち並び、海岸沿いには松原がありましたが、津波で家々はすっかりなくなってしまい、松原もまばらになってしまいました。その一方で、貞山堀より内陸側は工場などがあり、早々と復旧しています。海岸沿いの活用は今後どうなるか分かりませんが、工場などに活用するのか、空港の騒音軽減のための緩衝地帯にもなりそうです。

本当に何もなくなったところを散歩して、空港に戻り、保安検査を受けてトランジットエリアに入ります。仙台空港は東京線はないものの、東北の拠点空港として常時賑わいを見せています。何より、建物のデザインも美しく、コンパクトでかなり使いやすい空港です。

19時に全日空で大阪へ。1時間半で伊丹空港へ到着。無事被災地周遊も終えることができました。

2012年5月 3日 (木)

被災地の実情-1年後の様子 PART-Ⅲ

428日(土)、3日目は宮城県石巻市から始まりました。今回行きたかったのは石巻中心部から国道398号線を女川方向へ向かった渡波地区にある「サン・ファン・パーク」。この公園は伊達藩のスペインへの使節の帆船である「サン・ファン・バウティスタ号」を展示しています。

この公園も津波の被害を受けましたが、奇跡的に展示の帆船は無傷だったようです。これはまだ見ていなかったので行ってみました。

公園内にはお土産屋、博物館、そして帆船の展示があり、かなり広かったです。もっとも、未だに営業が再開していません。ただ、公園内は自由に散歩できます。帆船も博物館棟の屋上から眺めることができます。ものすごく大きな船で、震災による傷は全くありませんが、周りには瓦礫がまだ残っています。これだけの大波を受けながら無傷だったのは奇跡としか言いようがありません。本当に早期の再開を望んでいます。

その後、牡鹿半島の先端にある鮎川浜に行くことにしました。しかし、そこまで25km。行って戻るとかなりの時間がかかります。ALL JAの準備もあるので、結局途中で諦めました。

再び渡波地区に戻って、女川方面へ向かいます。女川町内に入ると浦宿浜があります。この付近は万石浦という大きな内湾があります。しかし、地盤沈下で、万石浦沿いは1日2回の満潮時には道路の冠水に悩まされるようになりました。

浦宿浜にはセブンイレブンがありますが、昨年訪れた時はたまたま満潮時で駐車場の半分近くが浸水し、周辺の集落の道路も水没していました。

今回来た時は1mほど嵩上げされ、かなり改善されたようです。それでも道路部分をかさ上げただけの対処療法みたいなもので、周辺の住宅部までは及んでいない感じでした。

女川中心部に近づくと、急に更地の大地が広がってきます。この地域も仮設の商店街ができて、ちょっとした賑わいを見せています。

さらに中心部へ進んで見ると、なぜか海がよく見えます。以前は見えなかったのに・・・。とりあえず高台にある女川病院に車を止めて上から眺めてみると、何と、港の前の大型の観光施設だったマリンパル女川が取り壊されていたのです。女川のシンボル的存在だったマリンパルは宮殿みたいな建物でしたが、女川町を襲った津波はこの4階まで達しました。女川では他に高い建物がなかったようで、完全に水没しなかったのはこのマリンパル、さらにちょっと高い位置にあった町役場、標高20mぐらいのところにあった女川病院ぐらいです。女川病院でさえ、1階部分が水没しました。今回の津波の規模の大きさがうかがえます。

女川町中心部は私がはじめて来たときはまだ多くの倒壊した建物が残されており、本当に地獄絵みたいな風景でしたが、多くが取り壊され、中心部の大半が更地と化してしまいました。女川駅や隣接する生涯学習センター、郵便局や小さな商店、消防署といった建物もすっかり解体されてしまい、どこに何があったのか分からなくなりました。もはやかつての町の面影もありません。

取り壊しをしているマリンパルの隣には2階建ての七十七銀行の女川支店の社屋が残っています。ここでは行員14人が屋上に避難しましたが、全員が津波に巻き込まれ、生存したのは1名だけ。現在、遺族と銀行側でも震災時の対応や銀行の安全管理などで意見が対立している上、原因を解明するために社屋の保存を望んでいる遺族側の意向に反して、銀行側が一方的に5月に解体を決めたために、余計対立が深まっているようです。

私が今回来た時も、取り壊しを前にして遺族の方が独自に検証するために集まっていました。

更地になった女川町中心部においては、横倒しになった女川交番ともう1つ、3階建ての建物が残されています。鉄筋コンクリートの建物が津波で横倒しになるケースは前例がなく、その恐ろしさを伝えるために残すようですが、周りに何もなくなってしまったら恐ろしさも半減してしまいます。やはりマリンパルや七十七銀行の建物も残すべきだったでしょう。

女川町を歩いた後、国道398号線で雄勝半島を走ります。山の斜面を走りますが、時々海岸に出ると荒れた土地に出会います。この付近は春には桜の名所で、通り抜けを楽しめます。被災地において、心が和みますが、上に見とれていると、車の車輪が大きな穴に取られることも。震災前から十分な整備がなされていなかった上に、震災で路盤が割れたところも多く、運転には油断できません。

石巻市雄勝町に入ると雄勝硯の博物館や中央公民館の大きな建物が出てきます。ここは石巻市に合併する前は牡鹿郡雄勝町の中心部だったところです。

この地域も津波で大きな被害を受け、中心部は壊滅状態になりました。ここは石巻市とはいえ、中心部から車で1時間以上かかるところで、震災当時も本庁から十分な支援が得られず、合併したデメリットがかなり露見されたようです。石巻市は現在は牡鹿半島、雄勝半島、さらに北上川の北岸まで含む広大な市になりましたが、現在でもかつての町に対するアイデンティティーの方が強いようです。

雄勝町の中央公民館の屋上には津波で流されて漂着した観光バスがぶら下がっていました。このシーンは津波の恐ろしさを伝えるものの1つとして有名で、保存の声もありましたが、結局安全性や津波の恐怖を思い起こさせるということで撤去されました。下ろされたバスは公民館の横で休んでいます。

雄勝町から北上すると、北上川に出ます。そのまま国道398号線を進めば新北上大橋を渡って北岸に出て、南三陸町へ向かうことができますが、橋を渡らずに河口方面へ向かうと釜谷地区に入ります。道路のすぐ右側に円形をした廃墟がありますが、これが全校生徒の約7割が犠牲になった大川小学校です。

大川小学校は地震の後、避難方法を巡って教師の間で意思統一ができず、とりあえずちょっとした高台になっている新北上大橋のたもとへ避難する途中に生徒や教師が津波に巻き込まれました。実際に学校のすぐ前に小学生でも登れるくらいの高台があり、そこへの避難も提案されていたようですが、結局意思統一ができず、危険な橋のたもとを選んだために被害が拡大しました。この新北上大橋も水没した上、橋の3分の1が倒壊し、流失しました。

この大川小学校もGWということもあって、多くの県外ナンバーの車が止まっており、観光感覚で見に来ている人たちが沢山いました。小学校の中は立ち入り禁止になりましたが、外からは中の様子をうかがうことができるので、丹念に様子を確認している人もいます。

さらに、小学校の入口には祭壇があり、そこで訪れる人たちは手を合わせています。私個人は観光のついでに震災の遺構を見学するのは構いませんが、やはり遺族や地域の方々の気持ちも配慮していただきたいと思います。

祭壇には在りし日の大川小学校の写真がありました。よく見ると、周囲には色とりどりの屋根の家々が並び、美しい緑に囲まれていたようです。

現在の釜谷地区はというと、家も何もない泥の大地といった感じ。写真のような町があったことも嘘のように感じられます。

大川小学校を見たあと、再開したばかりの新北上大橋を渡って南三陸町へ向かいます。この橋が不通の間は10km以上上流の橋を使わざるを得ず、わずかの距離で40分近くかかりましたが、新北上大橋の再開で1分もかからずに対岸に出られるようになりました。

北上川を河口に向かって進んでいくと、石巻市の北上総合庁舎が解体されています。この庁舎も多くの人たちが避難していましたが、50名以上避難しながら助かったのは2人だけとか。悲劇の象徴になった施設も遺族への感情を配慮してか解体が進んでいます。

有名な神割崎を通って南三陸町に入ると戸倉地区の海岸沿いの集落は殆ど壊滅しています。しばらく進むと、広い駐車スペースがあり、入口にモアイ像があります。

このモアイ像は1961年のチリ地震による津波を記念してチリ政府から贈られたもので、志津川湾を見るように立っています。さらに、志津川中心部の松原公園にもモアイ像がありましたが、これは津波で流されました。戸倉の公園のモアイも津波の直撃を受け、胴体が壊れていました。

その後、志津川に入ります。南三陸町は志津川町と歌津町が合併してできた町で、志津川はかつての中心になるところです。

ここもサンポートという大きなスーパーや公立病院、町役場や駅があり、さらに色とりどりの美しい町でしたが、津波で殆ど全て流されてしまい、壊滅状態になってしまいました。

まず、町の中心にあった町役場の跡地、そして防災庁舎を見に行きます。南三陸町では木造2階建ての町役場の本庁舎は津波で完全に流失。防災庁舎は3階建てで、約6mだったチリ地震の際の津波を想定して作られました。

津波が発生する前には若い女性職員がここで避難を呼びかけ犠牲になったことでよく知られており、さらに、庁舎の屋上には約40名ほどの職員が避難していましたが、想定を超える津波に飲み込まれ、生存したのはアンテナにつかまっていたわずか8人とか・・・。

本来、町の防災の拠点として設置され、災害時には司令塔になるはずだった防災庁舎も今回の津波で骨組みだけになってしまい、今回の災害の被害の大きさを伝える施設の1つになってしまいました。

ここもGWということもあって、県外ナンバーの車で賑わっており、多くの人が写真を撮影したり、周囲を見回したりしています。

この防災庁舎も保存の話がありましたが、やはり遺族や地域の住民の反対が根強く、9月までに解体することが決まりました。

保存の可否については最終的には遺族や地域住民の意見が尊重されるべきですが、私としてはやはり残して津波の恐ろしさを後世に伝えるものであってほしかったし、当時の真相を究明する上でも残すべきだと思います。

ここでお昼が過ぎ、ALL JAの戦場に向かうことにしました。場所は南三陸町の神割崎の近く。また別枠で紹介しましょう!

2012年5月 2日 (水)

被災地の実情-1年後の様子 PART-Ⅱ

427日(金)、被災地での2日目は岩手県下閉伊郡田野畑村、宮古市、下閉伊郡山田町、そして上閉伊郡大槌町と回りました。

田野畑村は北山崎や鵜の巣断崖といった、三陸地方で有数のリアス式海岸特有の景勝地で知られています。

北山崎は昨年訪れたので今回はパス。三陸鉄道のカンパネルラ田野畑駅から沿岸を南下することにしました。三陸鉄道の田野畑村内はもう1つ、カルボナード島越という駅もあります。地名の前のカタカナの名称は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出てくるものに由来しています。

田野畑駅周辺は津波でほぼ壊滅しましたが、駅は高台にあったために駅舎の倒壊を免れましたが、標高20mぐらいの駅の駐車場のところまで津波が来たようです。昨年は鉄道も不通でしたが、この4月に田野畑以北が復旧しました。駅舎も明るくペイントされ、復興にかけるメッセージが書かれていました。

この地域は壊滅しましたが、北山崎の観光船の港になっています。駅から1kmほど北の海岸には大きなホテル羅賀がありますが、ここも津波に襲われ、依然閉鎖されています。この周辺も標高20mぐらいのところまで津波が遡上したようで、かなり高いところまで被害を受けていました。

田野畑駅から山を少し越えて南下すると島越地区があります。ここもカルボナード島越駅と周辺に集落や商店があって、北山崎観光の拠点になったり、海水浴場もあり、観光のゲートウェイになっていましたが、現在は高台に家が2件残っている以外は全く何もなくなりました。駅舎もメルヘンチックな建物でしたが、津波で倒壊し、現在は階段の一部と駅前の宮沢賢治の物語が書かれた石碑が残っているだけになりました。海岸も瓦礫置き場になり、かつて繁栄した風景はありません。本当に何もかも消えてしまいました。

島越から車で30分ほど移動すると有名な鵜の巣断崖に着きます。ここは三陸有数の景勝地で、切り立った絶壁にウミネコが巣を作っていることに由来しています。リアス式海岸の芸術を堪能していると、同じ村内でも大違いです。

その後、宮古市内に入り、田老地区に入ります。田老地区は過去にも何度も津波に襲われ、そのたびに町が壊滅するという歴史を繰り返してきました。そういう教訓もあって、昭和大津波以来、高さが10mという最大級の堤防を築き、町を守ってきました。実際、1961年のチリ地震による津波では被害は殆どなかったようです。

しかし、今回の震災では想定を超える津波に襲われ、再び田老地区が壊滅状態になりました。高台にあった家々や嵩上げした土地に作られた合併前の田老町役場、現在は宮古市の支所は無事でしたが、平地の建物は殆どなくなりました。

堤防をX字型にして町を守ってきましたが、海に近い部分が欠けてしまったりして、莫大なお金をかけてハードを整備しても無力だったことを実感します。また、ハードを充実させると、そこにいる人たちは盲目的に信用してしまい、結局多くの人が逃げずに巻き込まれました。

田老地区は頑丈な堤防で世界の注目を受けましたが、結局は意味がなかったとも言えます。今後はもっと充実させ、20mの堤防を築くのか、それか景観を重視したり安全上海の情況が分かるよう、最小限の高さにするか迷うところですが、やはり、防災教育や避難ルートの充実化など、ソフト面の対策も重要だと思います。

田老地区も昨年来た時よりも商店の営業も再開したり、仮設のローソンもかつてのカーディーラーだった場所に開店しました。また、高台にある道の駅たろうは被害がなく、今までどおり営業し、観光の拠点になっています。

田老地区といえば、大王崎という海岸にひょっこりそびえ立つような岩があります。遊歩道が破壊されたため、下から見ることができませんが、上から眺めてきました。急な坂を上るため行くのにかなり不便であり、眺めもよくありませんが、観光地としても復活してほしいものです。

その後、山田町内を通り過ぎて大槌町へ。大槌町はまず浪板海岸付近を散策。サーフィンのメッカと呼ばれた海水浴場も未だに砂浜が戻らない状態。大きなホテルも営業ができないまま放置されていました。また、元集落の入口にはファミリーマートが開店の準備をしていました。

少し釜石方向へ進むと、吉里吉里地区に出ます。吉里吉里は井上ひさしさんの小説「吉里吉里人」の舞台になったところですが、地域の大部分は壊滅状態。その一方で、ローソンや小さな商店が営業を始めています。

さらに中心部に近づいて、漁港がある赤浜地区、安渡地区へ。私がいた時と比べると瓦礫も片付いた上、さらに海岸部の道路も1mほど嵩上げされたために、地盤沈下による冠水に悩まされる心配がなくなりました。もっとも、道路沿いの土地までは嵩上げされておらず、道路のみが一段と高くなっています。道路の隅が分かるようにポールが立っていますが、転落しないように注意が必要です。当然土地は嵩上げされていないので、その部分は冠水することがあります。今後の土地の活用について先行きが分かりませんが、再びこの地域に建築をするつもりなら、土地の全体的な嵩上げも必要になります。

ちなみに、地盤沈下は一度発生すると恒久的なもので、自然に元に戻るものではないようです。したがって、人工的に地面を嵩上げするしかないようです。

その後、中心部へ。国道の南側には津波で破壊されて放置されていた薬局チェーンの薬王堂がリニューアルオープン。国道の北側には津波で被災した大槌北小学校があり、そのグラウンドに仮設の商店街がオープンしました。商店街はスーパーや食堂だけでなく、居酒屋、美容院、レンタルCDTSUTAYA、ほっかほか亭、電気屋さんなど、生活に必要なものがほぼ揃っています。

さらに、釜石寄りの町中心部への入口にある大型ショッピングセンターのマストも12月にリニューアルオープン。核店舗のMAIYAを中心に衣料品店や書店などのテナントも入っています。

マストの向かいにはパチンコ屋もあり、こちらも大音量の音楽を鳴らして大盛況。失業率が高い被災地ではパチンコ屋が大繁盛しているようですが、ここもかなり賑わっています。

この7ヶ月間で町に大きな進歩を感じました。いずれの商業施設も駐車場は車がよく止まっており、多くの人で賑わっています。中心部に店がなかった当時は活気も感じませんでしたが、商店が増えることによって彩が備わったと思います。

一通り回った後、私の古巣である大槌町役場へ。アポなし電撃訪問でオフィスを訪れると、みなびっくりされました、まるで悪魔が来たかのように(笑)。

私が初めて着任した当時はまだ混乱の時期で、かなりバタバタした中で崩壊した行政機能の復旧に関わっていましたが、現在ではほぼ正常に戻りました。そして、現在は都市計画や土木関係の職員の需要が高く、その方面の分野で全国から支援の職員が来ています。

まだ復旧も途半ばですが、職場もいっそう明るさが戻ってきてほっとしています。

懐かしい皆さまとの会話もそこそこに、私は翌日はALL JAがあるために、移動せざるを得ず、引き上げました。

役場の近くのテントの復興食堂で夕食を楽しんだ後、大雨が降る中、国道45号線を一気に宮城県石巻市まで南下。途中、南三陸町の歌津のファミリーマートで休憩も含めて、3時間半で到着しました。

2012年4月29日 (日)

ただいま、宮城県本吉郡南三陸町

今、ALL JAの激しいバトルが繰り広げられています。今の時間は7MはCWもSSBも隙間がないくらい出ています。

昨日はアンテナトラブルなどで設置に時間がかかってしまい、事前にお知らせできませんでしたが、当局は今、宮城県本吉郡南三陸町(06014F)でQRVしています。沢山の局とQSOできることを願っています。

今年は全国的に真夏日な感じで、こちらもかなり暑いです。熱射病に気をつけて、コンテストを楽しみましょう!

2012年4月26日 (木)

被災地の実情-1年後の様子 PART-Ⅰ

昨日仙台に着いて、今朝レンタカーで出発。宮城県南三陸町、気仙沼市、岩手県に入って陸前高田市、大船渡市、釜石市、大槌町を通って、今下閉伊郡山田町にいます。

こちらは今雨。さっきまでHFオールバンドのDPのチューニングをしていました。とりあえず実用域に収まりました。その時、岩手県警の方にお世話になっちゃいました。被災地では常にパトカーが巡回していますが、運転免許証とハムの免許状を提示し、きちんと説明すれば怪しまれることがないでしょう。もっとも、乗用車を使った「自爆テロ」や「大量殺害」の時に旅行に行ってたり、被害者の情報を加害者に無断で提供したどこかの警察と比べると、真面目に仕事をやっています、Hi。

まあ、これはいいとして、被災地各地を回ったのは昨年の9月以来。震災から1年が過ぎると、かなりの変わりようにびっくりしました。

まず、大抵のところで破壊された建物の撤去も完了し、更地状態に。大きな建物が残るくらいになりました。その一方で、津波が襲来した地域に壊れた建物を改修して再開した店舗や仮設の店舗が続々出ています。

こういった個人個人の開業以外にも、各所に仮設の商店街がオープンしたこと。気仙沼市、大船渡市、釜石市では中心部に、大槌町ではちょっと離れた被災した中学校の跡地にプレハブの商店街がオープン。コンビニやスーパー、食堂だけでなく、衣料品店や美容院まであり、ほぼ日常生活の需要を満たしていそうです。

私が滞在していた時は、とりあえず見たいな感じでスーパーの仮設店舗ぐらいだったのですが、今回はかなりバラエティーに富んでいます。当時の混乱の時期で、まずは生活するに不可欠な「食」が重視されていましたが、今では「衣」を取り巻くものへの需要も高まっている感じです。今後、被災した土地の活用や高台移転がまとまれば、「住」に移っていくことだろうと思います。何より、混乱から脱しつつあることは実感しました。

また、今回気が付いたのは、被災地の殆どに信号機が復活していたこと。特に交通量が多い南三陸町の志津川や釜石市の中心部では安全に通行できるようになりました。

私が見てきた各地の様子を報告しましょう。

南三陸町の志津川地区は殆ど解体され、更地に。保存か解体かで揺れている防災庁舎も未だに残っており、現地で活動しているボランティアさんとかよく訪れています。私もちょうど僧侶の団体さんと遭遇、後ろで津波発生当時の状況を詳しく説明していたので聞いていました。

役場の職員が57人犠牲になり、防災庁舎では屋上のアンテナにしがみついていた町長、副町長、そして職員3名の5名しか助からなかったとか。私が持っている資料では8人ということですが、別の事実も明らかになっているよう。もっとも、5名であろうが8名であろうが、この場所で起こった悲劇は同じです。特に防災庁舎で避難を呼びかけて犠牲になった24歳の女性職員の話は伝説のようになっていますが、私個人としてはそれはいかがなものかとも思います。

気仙沼市もフェリーターミナルの前に仮設の商店街ができました。ちょうど、みのもんたさんが寄ったコロッケ屋さんを見つけ、そこでほかほかのコロッケを食べながらおばちゃんと話を楽しみました。やはり観光客が戻ってきて、少しの時間でも商店街で食事をしたり買い物をしてくれるだけでもうれしいとおっしゃっていました。

フェリーターミナル周辺も地盤沈下で、私がいた時は1日2回、道路が沈没していましたが、嵩上げもされ、殆ど心配がなくなったようです。

陸前高田市では被災地のすぐ直近の高台であった鳴石地区の商業上の役目はほぼ終わり、スーパーや文具店の仮設店舗は殆ど中心部から4~5km離れた竹駒地区へ移動。このあたりも津波で被災しましたが、やはり平らなスペースが多いので、スーパーのマイヤの仮設店舗やコンビニ、100円ショップや本屋さんなどができました。

本屋さんでは鳴石地区は一時的な措置であったために竹駒地区に移ったが、また国の方針や市の復興計画しだいでは別の場所に移転するかもしれないということを話されていました。

また、陸前高田といえば、有名な希望の一本松。昨年、すでに蘇生不可能とされてしまいましたが、現在でも悠々と立っています。今後永久保存が検討されているようですが、やはり津波被害の恐ろしさを伝えるとともに、復興のために市民が一丸となるためにも保存してほしいと思います。

大槌町では町の入口にあった大型ショッピングセンターのマストもオープン。私が着いたときは閉店後でしたが、ライトアップされ、復活をアピールしている感じでした。私が初めてきたときは駐車場に漂着した家が放置されていたのに・・・。向かい側のパチンコ屋もオープンし、こっちも賑やかでした。

大船渡市、釜石市ではよくお世話になった方とひと時の再会。大船渡市では休日によく寄っていたアジア雑貨店のおばさんと再会。久々に美味しいタイカレーを楽しみました。釜石市ではいつも寄っていた駅前のスーパーのお姉さんと再会。私のことをよく覚えてくれていたようで、次の客が来るまで釜石市の復興の状況をよく話してくれました。

初日はここまで250km。ほぼ一日運転して疲れました。現在大雨。明日は観光できるか、各所を歩くことができるか不安ですが、まあゆっくり休もうと思います。