4月28日(土)、3日目は宮城県石巻市から始まりました。今回行きたかったのは石巻中心部から国道398号線を女川方向へ向かった渡波地区にある「サン・ファン・パーク」。この公園は伊達藩のスペインへの使節の帆船である「サン・ファン・バウティスタ号」を展示しています。
この公園も津波の被害を受けましたが、奇跡的に展示の帆船は無傷だったようです。これはまだ見ていなかったので行ってみました。
公園内にはお土産屋、博物館、そして帆船の展示があり、かなり広かったです。もっとも、未だに営業が再開していません。ただ、公園内は自由に散歩できます。帆船も博物館棟の屋上から眺めることができます。ものすごく大きな船で、震災による傷は全くありませんが、周りには瓦礫がまだ残っています。これだけの大波を受けながら無傷だったのは奇跡としか言いようがありません。本当に早期の再開を望んでいます。
その後、牡鹿半島の先端にある鮎川浜に行くことにしました。しかし、そこまで25km。行って戻るとかなりの時間がかかります。ALL JAの準備もあるので、結局途中で諦めました。
再び渡波地区に戻って、女川方面へ向かいます。女川町内に入ると浦宿浜があります。この付近は万石浦という大きな内湾があります。しかし、地盤沈下で、万石浦沿いは1日2回の満潮時には道路の冠水に悩まされるようになりました。
浦宿浜にはセブンイレブンがありますが、昨年訪れた時はたまたま満潮時で駐車場の半分近くが浸水し、周辺の集落の道路も水没していました。
今回来た時は1mほど嵩上げされ、かなり改善されたようです。それでも道路部分をかさ上げただけの対処療法みたいなもので、周辺の住宅部までは及んでいない感じでした。
女川中心部に近づくと、急に更地の大地が広がってきます。この地域も仮設の商店街ができて、ちょっとした賑わいを見せています。
さらに中心部へ進んで見ると、なぜか海がよく見えます。以前は見えなかったのに・・・。とりあえず高台にある女川病院に車を止めて上から眺めてみると、何と、港の前の大型の観光施設だったマリンパル女川が取り壊されていたのです。女川のシンボル的存在だったマリンパルは宮殿みたいな建物でしたが、女川町を襲った津波はこの4階まで達しました。女川では他に高い建物がなかったようで、完全に水没しなかったのはこのマリンパル、さらにちょっと高い位置にあった町役場、標高20mぐらいのところにあった女川病院ぐらいです。女川病院でさえ、1階部分が水没しました。今回の津波の規模の大きさがうかがえます。
女川町中心部は私がはじめて来たときはまだ多くの倒壊した建物が残されており、本当に地獄絵みたいな風景でしたが、多くが取り壊され、中心部の大半が更地と化してしまいました。女川駅や隣接する生涯学習センター、郵便局や小さな商店、消防署といった建物もすっかり解体されてしまい、どこに何があったのか分からなくなりました。もはやかつての町の面影もありません。
取り壊しをしているマリンパルの隣には2階建ての七十七銀行の女川支店の社屋が残っています。ここでは行員14人が屋上に避難しましたが、全員が津波に巻き込まれ、生存したのは1名だけ。現在、遺族と銀行側でも震災時の対応や銀行の安全管理などで意見が対立している上、原因を解明するために社屋の保存を望んでいる遺族側の意向に反して、銀行側が一方的に5月に解体を決めたために、余計対立が深まっているようです。
私が今回来た時も、取り壊しを前にして遺族の方が独自に検証するために集まっていました。
更地になった女川町中心部においては、横倒しになった女川交番ともう1つ、3階建ての建物が残されています。鉄筋コンクリートの建物が津波で横倒しになるケースは前例がなく、その恐ろしさを伝えるために残すようですが、周りに何もなくなってしまったら恐ろしさも半減してしまいます。やはりマリンパルや七十七銀行の建物も残すべきだったでしょう。
女川町を歩いた後、国道398号線で雄勝半島を走ります。山の斜面を走りますが、時々海岸に出ると荒れた土地に出会います。この付近は春には桜の名所で、通り抜けを楽しめます。被災地において、心が和みますが、上に見とれていると、車の車輪が大きな穴に取られることも。震災前から十分な整備がなされていなかった上に、震災で路盤が割れたところも多く、運転には油断できません。
石巻市雄勝町に入ると雄勝硯の博物館や中央公民館の大きな建物が出てきます。ここは石巻市に合併する前は牡鹿郡雄勝町の中心部だったところです。
この地域も津波で大きな被害を受け、中心部は壊滅状態になりました。ここは石巻市とはいえ、中心部から車で1時間以上かかるところで、震災当時も本庁から十分な支援が得られず、合併したデメリットがかなり露見されたようです。石巻市は現在は牡鹿半島、雄勝半島、さらに北上川の北岸まで含む広大な市になりましたが、現在でもかつての町に対するアイデンティティーの方が強いようです。
雄勝町の中央公民館の屋上には津波で流されて漂着した観光バスがぶら下がっていました。このシーンは津波の恐ろしさを伝えるものの1つとして有名で、保存の声もありましたが、結局安全性や津波の恐怖を思い起こさせるということで撤去されました。下ろされたバスは公民館の横で休んでいます。
雄勝町から北上すると、北上川に出ます。そのまま国道398号線を進めば新北上大橋を渡って北岸に出て、南三陸町へ向かうことができますが、橋を渡らずに河口方面へ向かうと釜谷地区に入ります。道路のすぐ右側に円形をした廃墟がありますが、これが全校生徒の約7割が犠牲になった大川小学校です。
大川小学校は地震の後、避難方法を巡って教師の間で意思統一ができず、とりあえずちょっとした高台になっている新北上大橋のたもとへ避難する途中に生徒や教師が津波に巻き込まれました。実際に学校のすぐ前に小学生でも登れるくらいの高台があり、そこへの避難も提案されていたようですが、結局意思統一ができず、危険な橋のたもとを選んだために被害が拡大しました。この新北上大橋も水没した上、橋の3分の1が倒壊し、流失しました。
この大川小学校もGWということもあって、多くの県外ナンバーの車が止まっており、観光感覚で見に来ている人たちが沢山いました。小学校の中は立ち入り禁止になりましたが、外からは中の様子をうかがうことができるので、丹念に様子を確認している人もいます。
さらに、小学校の入口には祭壇があり、そこで訪れる人たちは手を合わせています。私個人は観光のついでに震災の遺構を見学するのは構いませんが、やはり遺族や地域の方々の気持ちも配慮していただきたいと思います。
祭壇には在りし日の大川小学校の写真がありました。よく見ると、周囲には色とりどりの屋根の家々が並び、美しい緑に囲まれていたようです。
現在の釜谷地区はというと、家も何もない泥の大地といった感じ。写真のような町があったことも嘘のように感じられます。
大川小学校を見たあと、再開したばかりの新北上大橋を渡って南三陸町へ向かいます。この橋が不通の間は10km以上上流の橋を使わざるを得ず、わずかの距離で40分近くかかりましたが、新北上大橋の再開で1分もかからずに対岸に出られるようになりました。
北上川を河口に向かって進んでいくと、石巻市の北上総合庁舎が解体されています。この庁舎も多くの人たちが避難していましたが、50名以上避難しながら助かったのは2人だけとか。悲劇の象徴になった施設も遺族への感情を配慮してか解体が進んでいます。
有名な神割崎を通って南三陸町に入ると戸倉地区の海岸沿いの集落は殆ど壊滅しています。しばらく進むと、広い駐車スペースがあり、入口にモアイ像があります。
このモアイ像は1961年のチリ地震による津波を記念してチリ政府から贈られたもので、志津川湾を見るように立っています。さらに、志津川中心部の松原公園にもモアイ像がありましたが、これは津波で流されました。戸倉の公園のモアイも津波の直撃を受け、胴体が壊れていました。
その後、志津川に入ります。南三陸町は志津川町と歌津町が合併してできた町で、志津川はかつての中心になるところです。
ここもサンポートという大きなスーパーや公立病院、町役場や駅があり、さらに色とりどりの美しい町でしたが、津波で殆ど全て流されてしまい、壊滅状態になってしまいました。
まず、町の中心にあった町役場の跡地、そして防災庁舎を見に行きます。南三陸町では木造2階建ての町役場の本庁舎は津波で完全に流失。防災庁舎は3階建てで、約6mだったチリ地震の際の津波を想定して作られました。
津波が発生する前には若い女性職員がここで避難を呼びかけ犠牲になったことでよく知られており、さらに、庁舎の屋上には約40名ほどの職員が避難していましたが、想定を超える津波に飲み込まれ、生存したのはアンテナにつかまっていたわずか8人とか・・・。
本来、町の防災の拠点として設置され、災害時には司令塔になるはずだった防災庁舎も今回の津波で骨組みだけになってしまい、今回の災害の被害の大きさを伝える施設の1つになってしまいました。
ここもGWということもあって、県外ナンバーの車で賑わっており、多くの人が写真を撮影したり、周囲を見回したりしています。
この防災庁舎も保存の話がありましたが、やはり遺族や地域の住民の反対が根強く、9月までに解体することが決まりました。
保存の可否については最終的には遺族や地域住民の意見が尊重されるべきですが、私としてはやはり残して津波の恐ろしさを後世に伝えるものであってほしかったし、当時の真相を究明する上でも残すべきだと思います。
ここでお昼が過ぎ、ALL JAの戦場に向かうことにしました。場所は南三陸町の神割崎の近く。また別枠で紹介しましょう!
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